文化と文明と東洋と西洋と日本絵画と西洋絵画

文化と文明と東洋と西洋と日本絵画と西洋絵画

【文化と文明】

他の方も記載していたが、”人間に役立つものとしての文明”と ”人間の信用の中で生まれる文化”という観点は興味深かった。 “文化”と“文明”を上記の意味で捉える時、文明は成果が明白である。 新しい社会技術やシステム等、目に見える”進化”がそこにはある。 では”文化”とは結局どのようなもので、それが”進化”していくとはどういうことか。 絵画は文化である。音楽もそう。文学もまた。 そして地域ごとの人間関係のあり方も同様文化であろう。 そう考えると、余計に分からなくなる。 ふっとノートを開き、上村さんの言葉を思い出して見る。 「戦中、鎖国によって刺激を失った日本文化は疲弊した」 「争いの中に文化の進化はなく、謙虚さによってこそ生まれる」 この言葉から類推するに、文化とは結局”自己理解”ではないかという結論に達した。それはきっと身体的な、物理的自己ではなく、社会として、まとまりとしての自己理解。 その意味では絵画、音楽、文化は一種の自己”表現”である。 人はあらゆる方法、メディアを使って自分を表現する。 だから、おそらく文化は”進化”しない。”深化”するものだと私は思う。

【東洋と西洋】

西洋と東洋の対比は良く聞く。 しかし少し考えてみると、西洋とはなにで、東洋とはどこで、 それ以外の地域はどうなっているのか。 そもそもアフリカ人にとって、南米人にとって、 西洋と東洋という概念は頭にあるのか。 イスラーム圏は東洋か、西洋か。 それは宗教で分けられるのか。人種か。国か。地理か。 結局のところ、西洋と東洋の比較は 自国の属する中華圏文化と経済的・軍事的に優れていた西洋文化との比較でしかない。 東アジア圏が経済的・軍事的に発展した今だからこそ、 狭義での(自民族を必要以上に美化するという意味での) エスノセントリズムに陥らぬよう気をつけるべきかもしれない。 以上を念頭においたとしても、西洋と東洋比較は面白い。 東洋の自然と”調和”する思想。 自然を愛し、自然に学び、自然に感謝する。 今まで人間は西洋の文化に習い、自然を抑圧してきた。 そのツケを将来払わされることになるかもしれない。 しかし、私達は責任を”西洋”に押し付けてはいけない。 結局のところ、文化とは国でも、人種でも、宗教でもなく、 1人1人の人間に宿るものではないだろうから。 だから、単なる西洋批判はなんの意味も持たない。 文明の進化をもたらし、これからも もたらし続けるであろう西洋文化と、自分の根底にある 東洋文化の対話をどう行い、結論を導くのか。 対話は自分の中にも確かにある。

 

【日本絵画と西洋絵画】

特に詳しくはないのだが、西洋絵画は好きである。 今回ほぼ初めて日本絵画を真正面から見て、意外なほど感動した。 その色の細やかさ、鳥達の今にも動き出しそうな様子。 シンプルなその絵に込められた全てが語りかけてきた。 西洋絵画で好きなのは、印象派とシュルレアリスムである。 しかし上村さんは上記の二つの流派が持っていたある意味での”現実性”は 日本画では“当たり前”のものであるらしい。 (ちなみに勘違いされやすいのだが、シュルレアリスム=「超現実」は現実を超えた夢想の意ではなく、 ”人の目に見えている現実よりもより現実”を描き出す流派) 確かに古来から日本絵画が持っていた ”再現性のなさ””イメージの重視”は印象派、シュルレアリスムが志向したものでもあるだろう。 日本絵画が将来、より世界に知れ渡る時はくるだろうか。 おそらく来ないだろうと思う。 そこには”目に見える”普遍的な美はない。 再現性、イメージが私達に訴えるのは、 ”日本”という文化に生き続けている我々の文脈においてのものだ。 だからこそ、私達はこの”日本”絵画をもっと理解し、 保存しなくてはならない気がした。