『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の招待』(森本あんり)

『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の招待』(森本あんり)
 
ブリーフィング
 
昨今、書店において「反知性主義」に関する本が跋扈しているが、
本書は現代の反知性主義を育てたアメリカの歴史を観察し、論述している。
 
アメリカは入植当初から、非常に高学歴な社会を構築していた。
それはアメリカへの移住がイギリスのインテリ層における協会の純粋化運動の延長であったことが原因である。
実際、アメリカでは小学校などに先だって、最初に大学が構築されたことに(牧師の養成を目的にした)高学歴社会の例を
見ることができるだろう。
当時のアメリカにおいて、ピューリタンの人々は日曜日に長々と礼拝をし、説教を聞くという生活を送っていた。
 
そのような高学歴社会、高度な礼拝に対して、「反知性主義」の萌芽としての18世紀に信仰復興運動(リバイバリズム)が巻き起こる。
リバイバリズムは教理についてではなく、心に、インテリだけにではなく、大衆に向けられた真理の教授に特徴づけられる。
そういった演説をするものは従来のようなインテリではなく、大学を卒業していないような人間が担った。
 
またこれらのリバイバリズムはアメリカの基礎である「平等主義」が背景にある。
正確に言えば、平等主義を掲げるにも関わらず、現実的な平等が達成されないことへの
不信感こそがリバイバリズムの一つの原動力であるのだ。
(ピューリタンも宗教的平等と現実的平等を別個のものと見なした。)
 
次に19世紀初旬領土の広がりと共に、第二次リバイバリズムが勃興する。
パブテストやメソジストのような”世俗”の牧師達が、いわゆる西部開拓地で苦労している「荒くれ者」達の
教化に励んだ。そこでも第一次と同様、聖書は面白く、分かりやすい物語として語られた。
また政治的にはジャクソンのような大衆的で権力に立ち向かっていく”勇敢”な人間がヒーローとなった。
時代の要請はあくまでも「下層階級の人々の好奇心を茂樹氏、享楽の欲望を満たし、支持をとりつけるために低俗で野卑なものを
提供すること」であり、権力に対する対抗であった。その観点から、反知性主義は反権力主義である。
 
そして、ムーディーにおける第三次リバイバリズムで、振興復興は巨大産業化、娯楽化を果たす。
まるで世俗の音楽を交えた賛美歌、そしてセールスマンのような巡回ビジネスによって、更なる広がりを見せるのである。
 
以上の歴史の上に、大衆伝導家ビリー・サンデーをもって、反知性主義は完成する。
サンデーはサーカスのようなショービジネスを展開することで、莫大な富みを得た。
またこの時期の完全な政教分離の成立は、自身で寄付金を集めなくてはならなくなった協会の
大衆への迎合を招いたのであった。
 
ここから、反知性主義とは「知性」への反抗ではなく、知性と権力の結びつきに対する反抗であると分かる。
そのような背景にはラディカルな平等主義や極端な楽観主義、即物的な宗教観(信じることによって、現世での幸せが得られる)
というアメリカの本質的な風土があったのである。
 
 
感想・考察
 
アメリカ社会の特性について読んだ初めての本という意味で非常に興味深い点が多かった。
本書においては平等主義や、”若さ”故の楽観主義、現世主義が特徴とされる。
現代日本において、反知性主義を考える際にすぐに出てくる疑問は
・日本にも反知性主義ははびこっているのか
・果たしてそれは「危険」なものであるのか
という二つの問いである。
 
まず一点目に関して、もしアメリカの風土と、それによって変質したキリスト教観
が反知性主義を生むのであれば、日本にもそれを生み出す素養はあると思う。
日本社会はアメリカ社会に比べて、より平等な国家である。アメリカ社会における識字率は
85%に過ぎないが、日本はほぼ100%である。また、いわゆるお賽銭を投じることで
願いがかなうという即物的な宗教観にも共通点が見られるからである。
 
また、それが「危険」なものであるかどうかに関しては「反知性主義」が現在どのようなものであり、
それがどのような方向に変化していくのかによるだろう。
もし、「反知性主義」が反権力主義に留まるのであれば、それは必ずしも危険とは言えない。
そういった反権力的な姿勢が今日の社会を作り上げてきたことからもそれは明らかだと思える。
一方で、もしそれが日本でいうところの「反・知性主義」に成り下がるのであれば、
それは多いに危険であろう。「原発は危ないから、やめよう」という世論、そしてそれに迎合するだけの政治家という体制が出来てしまえば、
それこそより大きな問題に目を背けることになる。
 
反知性主義は知性の本質を求めるが故の反抗である。それは知性を嫌うからではないのである。