「他人と同じことをしたくない」症候群の背後にある思想

「他人と同じことをしたくない」症候群の背後にある思想

 
思うに資本主義の中にある現代、二つの価値観が相克している。
”稀少性”に全ての価値を見出す「経済学的思想」と、
”個の不可侵性”を重視する「宗教的(キリスト教的)思想」である。
 
現代、価値があると考えられているものはなにか。
それは金であり、レアメタルであり、キャビアである。
これらは何を持って、価値を持つのか。
それは一重に稀少性に過ぎない。
少ないから、価値が高いのである。
ある人はそこに有用性の存在を主張するかもしれない。
確かに金の特性、レアメタルの特性はすばらしいが、
もし金が多量に存在し、鉄が少量しか存在しなかったら、どうなるだろう。
鉄の価格が上がるのではないだろうか。
そもそもキャビアを取り上げてみれば、米のように毎日食べたいものでもない。
でも「少ない」から、米よりも圧倒的に値段が高いのである。
 
それに対して、宗教が主張するのは「個の不可侵性」、ある意味で
個々人の存在が等しく尊いということである。
大富豪も平民も乞食も平等に一つの命として等価なのである。
現実問題として、それが本当に現実に反映されているかは分からない。
しかし、もはや宗教が失われた日本、そこに住む私には
この考えはひどく新鮮であり、何百年にもわたって人々の信仰を
受けてきただけのことはあると感じられるのである。
 
このように考えるとき、「他人と同じことをしたくない」症候群の背後には
一部(全てだとは決して断言しないが)経済的な思想があるのではないかと考えてしまう。
 
「他人と同じことをしたくない」理由はなんだろう。
結果が見えているから?
皆に「他とは違う」人間に思われたいから?
それとも、自分は皆とは違う人間だと思いたいから?
そして皆と違う自分の人生にとりわけ大きな価値付けをしたいから?
私が思う理由はこれくらいである。
 
だが、上に挙げた全ての理由は全て稀少性に価値を置くが故の発想である。
そして残念なのは、稀少性が常に相対的なものであるということである。
 
かつてはマイノリティであったフリーターは増え、現在ではフリーターをしながら夢を
追うというルートは稀少性を失っている。
結局「他人と同じことをしたくない」という発想は他人から逃れることを必然的に拒むのである。
 
大学に行き、大手企業に入り、子供を育て、退職し、老後を楽しむ。
 
それは想像できることかもしれない。
皆と同じかもしれない。
 
しかし、「他人と同じことをしたくない」という人間は
「他人と同じことをしていない」人間である。
故に「大学に行き、大手企業に入り、子供を育て、退職し、老後を楽しむ」
ことを「経験」しておらず、
「大学に行き、大手企業に入り、子供を育て、退職し、老後を楽しむ」
を知った気になっているだけの人間なのだ。
大手企業の苦しさもやりがいも、子供を育てる難しさも楽しさも、
老後のわびしさと落ち着きを全て「知った気」になって、
我が者顔で生きている存在に過ぎないのだ。
 
だから、「他人と同じことをしたくない」という発想は
マイノリティルートを選ぶ理由には本来なりえない。
 
やりたいことがあるから、マイノリティルートを選ぶのである。
 
一度、道を踏み外すと受け入れられづらい日本において、
マイノリティルートを選ぶことは大きなリスクを伴う。
 
ハイリスクには、常にハイリターンを求めなければバカである。
 
そのリターンが「他と違う自分」への優越感だけでは、いささか
物足りないのではないだろうか。
 
自分が本当に力を入れて、取り組みたい、努力してみたいことがマイノリティルートにしかなく
、たとえ失敗しても笑って、また努力できる人間にこそ、マイノリティルートはふさわしい。
 
人生やキャリアにおいて「マイノリティ」であること、それ自体に大きな意味はないのではないだろうか。