『日本のいちばん長い日』(半藤一利)

『日本のいちばん長い日』(半藤一利)


【大日本帝国はその最後の一日をいかに過ごしたか】
戦争期における様々な失敗、狂信は多様なメディアを通して、伝わってくる。
そして、異様な天皇礼賛、軍の暴走がフィーチャーされることが多い。
それらのメディアを通した情報の基本構図は軍上層部の暴走、それに従わざるをえない被害者としての民衆・下級兵というものが多い。また天皇礼賛の強要に染まっていく市民という構図もまたあるだろう。
しかし、(少なくとも今までの私の知識の中では)①侵略者としての日本人②軍上層部・天皇の想いが語られることは少ないように思う。それは今テレビや雑誌を見ている我々の多くが民衆であったのであり、その責任を上層部に認めておけば、自分は何も罪を負わずにすむという側面があるのかもしれない。

本書はポツダム宣言を受諾するにあたっての政治上層部の言動、反対する一部の軍関係者、そして天皇の御心など意志決定者の話が語られる。

その中で国体維持に全身を捧げる軍、そしてその論理、美学は(一部)理解可能なものであった。単に精神主義といって批判するにはあまりに深い美学、信念である。それは軍人特有であるにしろ、その同胞を思いやる気持ちや滅私奉公の思想などは(軍において、最も精鋭化していたであろうことは別にして、)今日の日本にも残る精神であると思う。



【フィクションとノンフィクションの相違点】

本書は1945年8月14-15日、つまり終戦を告げるラジオ放送の一日前にあって、政府・軍の人間がどのように考え、行動したかを克明に記したノンフィクション作品である。
昨日、テレビ番組「カズオ・イシグロの白熱文学教室」を見て、フィクションとしての小説論を学ぶ中で、フィクションとノンフィクションの違いをまとめたい。

まずノンフィクションにあたっては、その目的は事実をなるべく適確に描くことである。あらゆる資料・調査を経て、真実の史実にいたろうとすること、それが最も重要である。そして、その史実は自分の手から離れている。言い換えれば、自分が手を加えた場所をできるだけ少なくすることこそノンフィクションを記述する作業の本質である。こう記述すると、それがあくまで学問チックで凝り固まり、つまらないものに思えるやもしれない。しかし、ノンフィクション”作家”はノンフィクションで描く”テーマ”・”時代”・”主人公”などの関して、一切の自由を持っている。であるから、一般に学問の中で扱われないテーマや、脚光を浴びない人物を中心とした作品など一定以上の自由度を持っているのである。またことわざにあるように往々にして「現実は小説よりも奇なり」であるのだ。

一方のフィクションに関してであるが、これは「事実ではない」という一点以外において、一切の自由の中にあると考えてよい。また小説はその存在のほとんど全てを「作者」に委ねている。作者が一切合切を決定している。もちろんノンフィクションにおいても、作者の視点が肝要であることは違いないのだが、フィクションはその比ではないだろう。フィクションはその存在理由も多様であり、作者によって大きく異なるであろう。カズオ・イシグロの場合、当初の彼の理由は「自分の心の中に残る日本」を記し、補完することにあった。しかし、後年の彼は記したいテーマを伝えること、あるいは自分が感じる、その「感覚を共有すること」に移行していったという。ノンフィクションでは基本的にのせたいメッセージが自身が選択した時代・人物に不可分に連なり合うのに対して、フィクションは自由に設定できる。そこが大きく異なるのであろう。

最後に記すべきことは、大半の作品がこれらの間にあるということである。