『それでも人生にイエスという』(ヴィクトール・フランクル)

『夜と霧』のヴィクトール・エミール:フランクルが、ウィーン市立大学で行った公演をまとめてある。

『夜と霧』との対比で語ると、本書ではそれほど収容所での体験の詳細は語られない。

むしろ、『夜と霧』での収容所での体験を元にフランクルが考えた人生哲学をより詳細に語ったものであるといえる。

『夜と霧』で私が感動した生の意味に関するコペルニクス的な問いの展開に関してはここでは言及せず、他にポイントであった部分を引用する。

 

『創造性を発揮し、言葉だけでなく行動によって、活きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっているということです』

 

『生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重要な責務なのです。』

『しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。』

 

『なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最前を尽くしているかといるかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において、最前を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。』

 

『死は生きる意味の一部になっている』

 

『人生に重みを与えているのは、ひとりひとりの人生が一回きりだということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです。』

 

『なんといっても、自分の存在を自分のあるべき姿に照らし合わせる人、したがって自分自身に理想というものさしを当てる人が、まったくくだらない人間であるかを問題にしなければなりません。自分自身に絶望することができるという、まさにその事実から、その人がなにかしら正しいことがわかり、絶望するほどのこともないことがわかるのではないでしょうか。』

 

『ひとりひとりの人間は、たしかに不完全ですが、それぞれ違った仕方で、「自分なりに」不完全なのだということを忘れてはなりません。』

 

『生はいまや、与えられたものではなく、課せられたものであるように思われます。』

 

『人生それ自身がなにかであるのではなく、人生はなにかをする機会である!(ハッベル)』

 

(解説)

『「快楽への意志」は「体験価値」を、「力への意志」は「創造価値」を、「意味への意志」は「態度価値」を実現するものに変質するであろう。