北朝鮮のある女性の物語

 

先日、LiNKという団体のイベントを通して、北朝鮮から亡命してきた女性の話を聞く機会があった。
このイベントは本当にただ、彼女の話を聞くだけに終わった。
しかし、彼女のストーリーはあまりにも残酷で、それでも今ここアメリカで足を落ち着けて立っているという事実に人間の強さを感じた。

日本にいれば、このような機会はなかっただろうし、彼女のストーリーを大まかにまとめよう。


彼女の父親は官僚組織のお偉方だったらしい。
平壌に済んでいた1980年代後半から、1990年代前半にかけて食糧供給は順調で、彼女の家族は父親の立場のおかげもあり、不自由のない生活を送っていたらしい。
しかし、1994年に金日成が息絶え、金正日の治世になってから、状況は大きく変わった。平壌への食糧供給はしだいに衰えていき、(おそらく彼女の父親の権力的失墜もあったのかもしれないが)彼女の家族は田舎に逃げることにした。(とはいえ、北朝鮮では移動の自由は認められていないため、逃げることができたという面で彼女の父親の力はまだ残っていたと見ることもできる。)
田舎の方が食糧がある、というのは今もそうらしい。
ただ、野菜などはあっても、肉などのタンパク源がない。彼女の妹はネズミを煮て、食うことで幼児の栄養失調状態から脱したということだ。
田舎ですら、それほど食糧が足りてなかったのである。そして特に冬、そして冬開けの4月などは前年の生産物を食い尽くすため、餓死者が増加するらしい。


兄弟姉妹4人、両親2人、祖母1人の8人の家族を支えきれないと判断した、彼女両親は危険を覚悟の上、中国へ食糧の探索に行くことにした。
子供を身ごもっていた母親は途中で引き返したが、父親はそのまま中国へ入った。
しかし父親はいくら待てど帰ってこない。
しばらくして、政府より父親が脱走の疑いで射殺されたことを知らせる手紙を受け取った。
それから、母は身ごもった子供を生んだため、家には子供が5人いることになった。
母は当初、生まれてきた子供を殺そうとしたが、できなかった。その子供になにも罪はないからである。


母は父の死で塞ぎこんでしまったため、今度は長女が食糧の探索にでることにした。彼女は数日で戻ると言い残し、数週間の間帰ってこなかった。
当時、高校生ぐらいの年齢であった長女は誘拐され、中国に売り払われてしまったらしいという情報を後から受け取った。
その後、彼女は自分が家族を支えるという想いを胸に懸命に、ついこの間生まれた赤ちゃんの世話をした。しかし、栄養失調が原因で彼は彼女の胸の中で死んでいった。そして、あまりの状況に精神的に病んでしまった祖母もなくなってしまう。


いよいよ、彼女達の家族は中国へ逃げることを決意した。



そして山の上り下りを繰り返した。彼女は生き残った兄弟達の中で最年長として弟を、母は妹をおんぶしていた。
途中、靴もなく、足があまりにも痛んだ彼女は母に自分はこれ以上弟を運べないことを告げた。
そこで、母は弟を知り合いの家に預けることにした。
弟は「なぜ僕ではなく、妹を連れて行くのか」と泣き叫び続けたらしい。
それでもなんとか、迎えにくるからと説得し、家を出て、国境の川を渡った。
この川は一方通行だと知りながら。
彼女は今でも、あのときのことを後悔しているという。
自分があのとき痛みを我慢し、母親になにも告げなければ、自分の横に弟がいたかもしれないからだ。
後から、知り合いに聞いた話では、知り合いの家もいよいよ食糧がなくなり、弟は家を追い出されてしまい、道ばたで餓死してしまったということだ。


中国に入ってからも苦難は続いた。
中国で見つかってしまっては、本国に連れ戻されてしまう。中国語をひたすら勉強し、家族のために働いた。
あるとき、ある慈善家が韓国に連れて行くことを提案した。
彼女は承諾したが、車に乗ることができる人数は限られていた。
中国語ができた彼女は仕方なく、家族を目的地、北朝鮮と中国の国境に送ってもらい、自分は別のルートで行くことにした。
しかし、道の途中で警察に捕まり、拷問を受けることになる。
殴られ、吊るされ、顔は別人のように、自分の力で立てなくなっていた。
その後、その警察が慈善家とつながっており、解放が許され、彼女は家族と合流できた。(警察は彼女が来ることを知っていたらしい)


しかし、彼女達家族は北朝鮮から韓国に移動する際に、警察に捕まってしまう。
監獄にいれられ、数ヶ月後、解放され、その後も逃げ続ける生活が長らく続いた。
最後には、慈善家が韓国への逃亡を計ってくれ、彼女は無事韓国へ亡命、その後、慈善家の手はずでアメリカに母・妹・自分の三人で訪れ、今にいたるということだ。


その後も彼女の苦難は続く。
アメリカという全く異質の環境で、彼女は母・妹を養うために一日16時間以上働き続けた。
そして、渡米から5年立ち、ようやく米国人への恐怖を克服、勉強を始め、8年たった今では英語も話せるようになった。
そして自分の同じような環境にある北朝鮮の人たちを救うため、彼女は団体を立ち上げ、現在活動している。



今回は彼女が語ったことをそのまま叙事的に書き綴ったが、それでもなお彼女の人生の物語は我々に様々な訴えをしてくる。
我々が意識すべきなのは、これが決して歴史ではなく、現在進行形として起こっている事実・現象なのだということだ。
第二次大戦後も、様々な戦争が絶えないように、ホロコーストが全ての非人間的行為の終点ではない。

日本にいると、どうしても政治体制としての北朝鮮、核問題、拉致問題に目がいきがちである。当然、それらは国際的に、あるいは日本人として非常に重要なイシューではあるけれど、その足下で飢餓・圧政に苦しんでいる、”人間”がいるということを我々は忘れてはいけない。