『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)

『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)

 
先日、NHKの白熱教室番組を見た「カズオ・イシグロ」の作品。

内容としては、臓器提供者として生まれた子供達が「ヘールシャム」という施設の中で育ち、多少の抵抗の後、ある意味受動的にその「生の意味」を受け入れ、臓器提供し、死んでいくという何ともミステリアスな話である。

http://www.kaz-ohno.com/special/kazuoishiguro.html

以上のリンクは、カズオ・イシグロのインタビュー記事である。白熱教室でも見たが、彼はいわゆる舞台設定や登場人物に必要以上の重きを置かない作家であるようだ。つまり、彼は彼が伝えたいメッセージや、考えるべきテーマを中心に話を構築するタイプの作家である。(彼曰く「かなり抑制の効いた作家」)

今回で言えば、「臓器提供」が全面に押し出されたテーマだったと言えるだろう。しかし、彼が本当に問題にしたかったのは「死」をいかに捉えるか、ということであったという。


「私が昔から興味をそそられるのは、人間が自分たちに与えられた運命をどれほど受け入れてしまうか、ということです。こういう極端なケースを例に挙げましたが、歴史をみても、いろいろな国の市民はずっとありとあらゆることを受け入れてきたのです。自分や家族に対する、ぞっとするような艱難辛苦を受け入れてきました。なぜなら、そうした方がもっと大きな意義にかなうだろうと思っているからです。そのような極端な状況にいなくても、人はどれほど自分のことについ.て消極的か、そういうことに私は興味をそそられます。自分の仕事、地位を人は受け入れているのです。そこから脱出しようとしません。実際のところ、自分たちの小さな仕事をうまくやり遂げたり、小さな役割を非常にうまく果たしたりすることで、尊厳を得ようとします。時にはこれはとても悲しく、悲劇的になることがあります。時にはそれが、テロリズムや勇気の源になることがありますが、私にとっては、その世界観の方がはるかに興味をそそります。別にこれが決定的な世界観だと言っているのではありませんが、このような歪んだ世界観を描くならば、『日の名残り』でも、この作品でもやったように、常にその方向に行く方を選びたいのです。『日の名残り』は、執事であることを超える視点を持ちようがない執事についての話です。我々はこれと変わらない生き方をしていると思います。我々は大きな視点を持って、常に反乱し、現状から脱出する勇気を持った状態で生きていません。私の世界観は、人はたとえ苦痛であったり、悲惨であったり、あるいは自由でなくても、小さな狭い運命の中に生まれてきて、それを受け入れるというものです。みんな奮闘し、頑張り、夢や希望をこの小さくて狭いところに、絞り込もうとするのです。そういうことが、システムを破壊して反乱する人よりも、私の興味をずっとそそってきました。

- 現実に逆らって逃げることはできませんね。それも自分の一部ですから。

イシグロ もちろんそうです。究極的な言い方をすれば、私は我々が住む人間の状況の、一種のメタファーを書こうとしていたのです。幸運であれば、70歳、80歳、恐らく90歳まで生きることができますが、200歳まで生きることはできません。つまり現実には、我々の時間は限られているのです。いずれ老化と死に直面しなければなりません。確かに私は、このストーリーの中で、若い人がかなり早く年を取る状況を人工的に作りました。つまり、彼らが30代になると、もう老人のようになるのです。でもこれは、我々がすでにわかっていることを、別の新しい観点から認識させてくれる方法に過ぎません。人生についての疑問や希望を、我々が実際に直面するものと同じようにしたかったのです。」


とのこと。

この文章を読むと、自分自身浅い読み方しかできていなかったように思う。

少し、「死」と関連づけて話をすると、やはり我々は「死」があるからこそ、人生をより望ましいものにしよう、向上しようと思うのだということを最近実感する。

仮に人生が無限であるならば、今努力をしなくても、どこかのタイミングで努力を始めれば、追いつける。多様な人生を生きられる。