公園・静寂の中で(40/204)

 

日曜日、おそらく留学後最もダラダラした生活を送った後で、ふっと家の裏にある公園を散歩してみた。今まで、なにかと余裕がなく、訪れたことはなかったのだが、想像よりもずっと大きな公園だったようだ。北へ北へと、意味もなく歩き続ける。
その北に長く伸びた公園はおよそ何と言えるものもなかった。
逆にいうならば、そこにあったのは「無」であった。
しかし遊具も建物もなにもなく、ただただ開けた、そこ場所になぜかとても豊かさを感じるのだった。昔なにかの本で読んだことがある。「無」であるということは、無限の「有」への可能性であると。そういった意味で、ここには「無限」があった。
ただボーと歩いたり。走ったり。ベンチで本を読んだり、話したり。球技をしたり、鬼ごっこをしたり。それは確かに豊かな空間だったのだ。
 
高い建物のない広い空の下で過ごしていると、どうも自分がどうしてもちっぽけな存在に思えてくる。沢木耕太郎の本のコトバを借りるのであれば、「自分が自然に解き放たれる」ような感覚がする。自分はなぜ生きるか。今の人生は望ましいものか。空にそんなことを問いかけられているような気がするのだ。
僕は東京が好きだ。
あの、ごちゃごちゃした街並みにどこか「人間らしさ」を感じるからかもしれない。
でもたまには、こうした空間で自分を自然に解き放ってみて、自分について考える時間を作るべきなのかもしれない。
前に温泉に行くのは確かに魅力的だけど、温泉って果たしてそんなにいいものかなっと思ったことがある。おそらく、温泉それ自体の価値はそこまででもないのだろう。でもいつもより少し遠くへ足を運んで、露天の温泉につかり、リラックスしながら、眺める森、そして広い空、我々はそれを見に行っているのかもしれないと思う。
 
こんなことを考えていて、デービスが前より少し好きになった。確かにデービスはなにもない。しかし、ない中でなにを作っていくかは自分自身である。そして、言ってみれば、ここデービスは今まで20年以上の人生の中で初めて訪れた人生の「温泉」なのかもしれない。ここには「無限」がある。
そう思うと少しポジティブになる。