映画批評 『ハンナ・アーレント』

映画批評 『ハンナ・アーレント』
 
およそ女性哲学者として、唯一その名を歴史に深く刻んであろうハンナ・アーレントの半生を描いた映画。作品としては主に『イェルサレムのアイヒマン』を中心に、執筆前のイェルサレムへのアイヒマン裁判の傍聴、執筆後のユダヤ人コミュニティからの強烈な批判がなされるという構造である。本作が優れているところは、アーレントをあくまでも恋や愛に揺れ動く一人の女性として扱った点にあると思われる。哲学者という言葉にはどこか客観的な、非社会的なニュアンスを感じざるを得ないが、本作はそのような偏見を崩すという意味でも良作である。
 
では、以下私が個人的に気になった点に関して記述する。
 
・悪の凡庸さ
 
これはイェルサレムにおけるアイヒマン裁判傍聴を通して、発見された概念である。
これは、「悪は常に根源からして悪である」という人々の願望に異を唱えるものであった。
それはつまり、悪なる行為は悪魔のような個人によってのみなされるものではなく、
全ての人に起こりうるものであるということである。
この「凡庸なる悪」は主に自身の機械化、思考・意志の停止によって生じる。
 
アイヒマンは裁判の中で、彼自身罪の意識はないと語った。
彼はただ彼の仕事をしただけであった。
ユダヤ人の強制収容所への運搬をいかに効率的に行うか。
彼のやったことはそれだけであり、彼自身が直接手を下した訳ではない、という主張である。
 
我々は果たして我々自身の生活において、思考・意志の停止に陥っていないだろうか。
 
例えば私はゴミを捨てるとき、行政の定めた分別法に従って、捨てている。
しかし、ひょっとすると、行政自身はコスト削減の関係から、環境破壊を起こすような、
最悪のケースを考えれば、人命に影響を与えるような廃棄法を採っているやもしれない。
それを裁判で弾劾されれば、私は「知らなかった」と答えるであろう。
しかし、アイヒマンも(当然、問題のレベルは異なるし、彼は勿論自身が運搬したユダヤ人達の
運命を知っていたではあろうが)同じであったのである。
 
ケーススタディとして、彼はユダヤ人が彼の運搬後どのようになるのかを完璧に知らなかったケースを考えよう。
彼は罪を負うべきであろうか。
私のイメージとしては罪を負わねばならないが、その罪は軽くなるだろう。
(業務過失致死のようなイメージであろうか)
 
それは彼がどのような意図を持っていようと、結果としてユダヤ人の大量殺戮を幇助していたことに
変わりはなく、それによる遺族の悲しみや個人の痛みは変わらないからである。
「法」は誰のためにあるのか。それを考えざるを得ないような映画である。
 
話が若干逸れたが、肝心なのは自分(達)が現在そのような状態に陥っていないかを常に考えることである。
仮に自分がアイヒマンの立場になったとしたら、自分は勇気をふるって、それに異を唱えられるか。
もし自身が異を唱えたところで更迭されるだけであり、ユダヤ人殺戮が変わらないとしても、
それに非難の声を挙げられるだろうか。
 
様々なことを考えさせる作品であった。
 
 
・思考の重要性
 
「悪の凡庸さ」においても絶え間ない思考と、意志が重要であることを述べた。
彼女の「思考」の重要性に関する萌芽はハイデガーによるものと描かれる。(おそらく正しい)
ハイデガーは思考とは本質的に何も世界を変えうるものではない、と述べる。
確かにいくら「自分とは何か」を考えつくしたところで、貧困が解決される訳ではないし、
より良い法律が構築される訳ではないし、企業業績が良くなる訳ではない。
ただし、多くの哲学者(例えばカントなど)が規定するように、思考あるいは理性こそ

 

人間を人間足らしめる要素(そして他の動物との差)であるとしている。