祈りの意味と、トリコロールをプロフにするという行為

先日のフランスのテロ行為により、Facebook上で「フランス国旗をプロフ」にする行為の是非が盛んに議論されている。

この議論を進めるより前に、残虐なテロ行為を前にして我々が行う、「祈り」の意味について簡単に考えてみたい。

宗教を持たない我々は「祈り」について、考え、実行する機会が少ない。

先日、とあるキリスト教団体を訪れた際には、皆無心に神に対して、祈りを捧げていた。しかし、祈りそのものは亡くなった方々の家族に物理的に届くことはなく、死者の魂に届くかも分からない。

では、祈りの意味はあるのか。

思うに、祈りとは精神界での行為であり、それそのものが意味を内包している。

生が尊く、意味を持つのは、生が尊いと我々皆が信じるからであるように、祈りもそれそのものとして不可侵な意味を内包する。

 

しかし、この「祈り」という行為と、「トリコロールをプロフにする」という行為は全く別の行為であろう。

なぜなら、後者はあくまでも他者に伝えること(あるいは自分が忘れないようにすること)を目的とした行為であると言えるからでる。

このような物理界の行為においては、我々は何かを決めなくてはならない。

そして「決める」という行為は「捨てる」という行為なのである。

我々個々の世界において、人は等価ではない。両親や友達はそこらの知らぬ人々よりもずっと大きく価値を持つことが多い。しかも、我々にとっての「世界」は世界ではない。我々の描く世界地図はひどく歪んでいて、生まれた土地、住んでいる町、訪れたことのある場所に大きな価値を置いている。フランス国旗が目立つのは、おそらく訪れたことがある、あるいは友達がいるといった事情もあると思われる。また、僕たちはシリアやイラクといったありふれたテロがありふれた地域のニュースよりも、フランスのようにテロの想像がつきづらい地域の事件に(その意外性、そして我々が触れるニュースの量の差異によって)注目するのだ。

その意味では我々は残酷なのかもしれない。

我々は完全に中立になんてなれない。しかも中立な立場に立ったとしても、中立な「行為」はもしかすると存在しないのかもしれない。

しかし、完全な中立になれないからこそ、そこに人々の愛が生まれ、結束が生じるのだと僕は思う。